2011年06月22日

「原子力発電は安全なものだと思っていたが、フクシマ以後考えを改めた。

asahi.com(朝日新聞社):ノーベル賞作家「フクシマ以後、原発への考え変えた」 - 文化
昨年ノーベル文学賞を受けたペルーの作家バルガスリョサ氏が20日来日し、東京都内で記者会見した。東日本大震災と原発事故に触れ、「原子力発電は安全なものだと思っていたが、フクシマ以後考えを改めた。科学がいかに安全性を考えても、津波や地震など自然災害はあらゆる予測を上回ってしまう。経済的で安全という考えを見直すべきで、別のエネルギーを探るべきだと思う」と話した。来日は4度目。東京や京都で講演する予定。


バルガスリョサと中南米文学
更新しました。 ↑↑

いろいろな情報があります。

これから講演があるようですのでいってみようと思います。

情報集めなくては。

2010年ノーベル文学賞受賞 マリオ・バルガス=リョサ氏講演会 - 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科

6月22日で終わってました。

 llose0622.jpg

(社)ラテン・アメリカ協会 - バルガス=リョサ氏講演会「Observatorio de la lengua espanola en Japon」
こちらは6月24日 京都外国語大学
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2011年06月07日

ケイコ・フジモリ大統領候補にきつい一言−バルガス・リョサ氏

【ペルー大統領選】ケイコ・フジモリ氏 父娘大統領へ勢い止まらない+(1/2ページ) - MSN産経ニュース

4月10日に行われた第1回投票での得票率は、1位のウマラ氏が31.6%、2位のケイコ氏が23.5%で、ウマラ氏が約8ポイントリードしていた。ともに貧困層を主な支持基盤にすることから、中間層や白人富裕層からの支持は薄く、昨年ノーベル文学賞を受賞したペルー出身の作家マリオ・バルガス・リョサ氏(75)は「エイズか末期ガン患者の二者択一に等しい」などと問題発言で決選投票を酷評。新聞紙上で論議が巻き起こる一幕もあった。




これじゃ物議を醸しますね、患者の側がね。

結果は

ケイコ・フジモリ氏、大統領選敗北認める : 国際 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

5日に行われたペルー大統領選決選投票で、元軍人オジャンタ・ウマラ氏(48)と戦った国会議員ケイコ・フジモリ氏(36)は6日、首都リマ市内で記者会見し、「ペルー国民の意思とウマラ氏の勝利を認める」と述べ、敗北を認めた。  6日夜発表の選管集計(開票率93%)によると、ウマラ氏が得票率51・6%、ケイコ氏が同48・4%となっている。
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2011年01月08日

ノーベル賞授賞式でのバルガス・リョサの発言-wikileaksについいて



バルガス・リョサの興味深い発言ですね。

>端的に言えば、国家は非常に脆弱(ぜいじゃく)になり、民主主義の根幹である機構そのものが危機にさらされることになるだろう。

>「最も民主主義の進んだ国家が最も脆弱」な一方で、「(開放性の無い体制を敷く)独裁国家が安泰である」という事実は「逆説的だ」とも付け加えた。

苦悩する文学者。
posted by ブラックコーヒー at 11:38| 埼玉 ☁| Comment(0) | リョサ発言集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月02日

バルガス・リョサの年譜を作成しました

『楽園の道』を購入したので

読み始めていますが、巻末に訳者の田村さと子さんの手になる「マリオ・バルガス=リョサ年譜」が付いていましたので、それを参考に年譜をサイトに作成しました。

こんな感じです。

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『楽園への道』の解説に翻訳者の田村さと子さんが書いている年譜です。最後のノーベル賞受賞だけ付け足しました。

マリオ・バルガス・リョサ年譜

1936年
3月28日ペルー南部のアレキーパで、父エルネスト、母ドーラの 長男として生まれる。父母が別居していたため、母方の祖父母の家 で一人っ子として育てられる。

1937(1歳)
祖父が領事としてボリビアのコチャバンバに赴任するのに伴って転居。小学校の4年間をラ・サール学院で学ぶ。

1945(9歳)
ペルー北部のピウラに引っ越す。小学校の5年生をサレジオ学院 で学ぶ。

1946(10歳)
両親が和解したため、父の住むリマに引っ越す。小学校の6年生から中学校の2年生までをラ・サール学院で学ぶ。

1950(14歳)
リマにある国立レオンシオ・プラド士官学校に入学し、5年制中学校の3、4年生を過ごすが、5年生のクリスマス休暇に中退。

1952(16歳)
ピウラに戻り、国立サン・ミゲル学院で中学校の最終学年を終える。地方紙のコラムニストとして文筆業を開始する。7月、文部省主催の学生演劇コンクールで2位となった自作の戯曲『インカの逃亡』を演出して上演。

1953(17歳)
リマに戻り、国立サン・マルコス大学で文学と法律を学ぶ。卒論『ルベン・ダリーオ解釈のための基礎』を書き、58年に卒業する。

1955(19歳)
フリア・ウルキディと結婚。最初の短編小説を発表。ジャーナリストとして「エル・コメルシオ」紙や雑誌に記事を書く。

1957(21歳)
短編小説「決闘」で雑誌「ルヴュ・フランセーズ」主催の文学コンクールで1位となり、副賞としてパリに招待される。

1958(22歳)
アマゾン川流域の先住民調査隊に同行する。ハビエル・プラド奨学金を得て国立マドリード・コンプルテンセ大学で博士課程を学ぶために留学。

1959(23歳)
短編集『ボスたち』により、スペインのレオポルド・アラス賞を受ける。8月にパリに移り、語学学校ベルリッツでスペイン語の教師をしたり、フランス・ラジオ・テレビ放送協会でジャーナリスト として働いたりしながら、7年間近くを過ごすことになる。

1963(27歳)
前年、セイクス・バラル出版社主催のブレベ図書賞コンクールで最優秀作として選ばれた『都会と大ども』が刊行される。同作品によ り、スペイン批評家賞を受けるが、フォルメントール賞では次席と なる。

1964(28歳)
ペルーに戻り、以前、調査隊の一員として訪れたアマゾンの密林地帯を旅する。フリア・ウルキディと離婚。

1965(29歳)
キューバのハバナでカサ・デ・ラス・アメリカス文学賞の審査員を務める一方で、雑誌「カサ・デ・ラス・アメリカス」の編集委員と なる。パトリシア・リョサとリマで結婚してヨーロッパに渡り、74 年まで、パリ、ロンドン、バルセロナに住む。

1966(30歳)
小説『緑の家』を発表してスペイン批評家賞を受ける。ニューヨークで開催されたペン世界大会に招かれる。長男アルバロ誕生。

1967(31歳)
中編小説『子大たち』刊行。『緑の家』によりペルー国民小説賞及びベネズエラのロムロ・ガジェゴス文学賞を受ける。パリでサルトルやボーヴォワールなどとともにペルーの政治囚の擁護を表明。ロ ンドンのクイーン・メリー・カレッジで教える。次男ゴンサロ誕生。

1968(32歳)
ワシントン州立大学の客員教授として7メリカに滞在。

1969(33歳)
小説『ラ・カテドラルでの対話』刊行。また「ティラン・ロ・ブランによる戦いの手紙」をジュアノット・マルトゥレイの騎士道小説『ティラン・ローブラン』の新版のプロローグとして刊行。ロンド ンのキングス・カレッジで教鞭をとった後、プエルトリコ大学の客員教授としてリオ・ピエドラスに滞在。

1970(34歳)
バルセロナに転居。

1971(35歳)
小説『緑の家』執筆の過程を明らかにした『ある小説の秘められた来歴』及びマドリード大学に博士論文として提出した『ガルシア=マルケス−ある神殺しの歴史』刊行。パディジャ事件により、キューバ革命と決別する。

1972(36歳)
映画関係の仕事にかかわるようになる。マルティ・デ・リゲールと『架空の戦闘』刊行。

1973(37歳)
小説『パンタレオン大尉と女たち』刊行。

1974(38歳)
長女モルガナ誕生。ペルーに帰国。

1975(39歳)
評論『果てしなき饗宴-フロベールと「ボヴァリー夫人」』刊行。コロンビア大学の客員教授となる。映画『パンタレオン大尉と女た ち』の監督をホセ・マリア・グティエレスとともに務める。

1976(40歳)
国際ペンクラブ会長に選出される。
続きがあります。
posted by ブラックコーヒー at 17:53| 埼玉 ☔| Comment(0) | このブログについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする